今やその中で一軒二軒しか店を開けていない古い暗い市場で私は御菓子を買います。その開いている店のうちの一軒が御菓子屋さんなのです。私は一週間分の御菓子を其処(そこ)で買います。既に習慣になりました。愛想の良いお爺さんの店長さんがいつも笑顔で『ありがとうございます』と言ってくれます。でもその市場に入るまでに辿る経路がまた凄いのです。都会の中なのですが今時土道です。舗装道路ではありません。そしてその両側には昭和中頃に建てられた、今や壁の落ちた、軒の下がった、そしてモルタルの黝(くろ)ずんだ間口の狭い家々が並んでいます。表札がある家もありますが、どうも人が住んでいる気配がありません。もう全部空家なのかと思ってその土道を歩いていると、過日初めてその家の住人、初老のおばさんが家の前で近所の人らしい人と話しているのに遭遇しました。その時私は心から安心しました。これらの古く粗末な家にもまだ人の営みが続いている、此処(ここ)は本当の『残骸』なのではない、此処(ここ)はまだ死んではいない、生きているとそう感じたからです。
私は時々思います。私は決して人間の事が好きではありません。私が好きな人間は非常に限られています。しかしいつも、其処(そこ)に人間の普通の営みがあるとそれが如何なる人間であるかを私が知る前にして既に嬉しくなります。ほっとするのです。この事は経験的に後付けで私に付加された属性ではない様に思います。私にとってそれは非常に本質的で私の属性の一つに数えるには相応しくないものであると。そんな根深いものを抱えていながら同時に人間の事をそんなに好きではないという自覚がある、これは如何なる事なのでしょうか。私は希望します。それは、私が『人間』と呼んでいるその対象とは実はただ一つの『人間』という範疇で呼称するには相応しくないものなのではないか、と。それは本質的に異なる別の二つ、否、幾つかのものを『誤って』全部一つの呼び名で呼んでいるのではないかと。
この事に就いては様々な見方が出来ると思います。また非常に危険な観点の基礎を提供している側面も慥(たし)かにあると思います。しかし私の感覚が感じ取ったものです。そこには非常に重要なものが潜んでいるに違いありません。