雅峰生の手紙

私が妻や友人に宛てて書いた郵便から

手紙の過去分は順次当サイトから削除して『断章』としてまとめ、
『小説家になろう』に掲載後、 Kindle で電子書籍化しています

6261

若しも本当の老年になってから、自分の欲しいものについて、
「誠実に、真面目に、懸命に、生きてきた自分の人生、その歴史が欲しい」
と心の底から感じたとしたら、それを一体如何(どう)したら良いでしょうか。今からそれを創る事は出来ません。自分の命の灯はそう遠からず消え入る事になるのです。身体も自由に動ける訳ではありません。後悔、絶望というのは、屹度(きっと)斯(こ)んな風にやって来るものであると私は思います。強くそう推量します。
恐ろしい事ではありませんか。既にこの心を直視せざるを得ない日々であれば、それは絶望しか残されていないと思います。人生の本当の最後になって、
「ああ、力足らずと雖(いえど)も、私なりに懸命にやった」
と微笑みたいです。その為の今の毎日、その為の私の現在の日々の営みです。何が自分を支えてくれるのか、支えてくれるものになるのか、よく考えよく想って毎日を過ごして下さい。

6260

一生の間にやりたいと思っている事を本当に実行する事が出来るか、完遂出来るか。想像ですが、殆どの人はそれをしてみたい、やってみたいと念じながら、遂に手を付ける事すら出来ずに終わるのではないでしょうか。単純に時間が無かったり、お金が無かったり、それよりも喫緊の生活上の問題への対処などで。だから『成功』したか否かに関わらず、したいと思っていた事に『取り掛かる事が出来た』、この事だけでも十分な成果ではないかと私は思います。
自分が生きた証とはそういうものだと思います。それは次第に大いなる納得となってずっと自分の隣に居てくれる事でしょう。正に大きな成果、『成功』なのだと思います。

6259

つげ義春の絵、温泉地や昔の宿場町、本当に良いですね。誰かの言葉ではありませんが、彼の描く風景は実際より三十年は古く見える、その通りだと思います。もう現代にその光景は残っていない可能性の方が高いですね。それでも探しに出掛けたくなります。若しや今も在りはしまいか、と。
淋しい絵です。でも観る者を酔わせようとも喜ばせようともしていません。在るものをそのままに、つげ義春の心に映ったものをそのままに、一切媚びずに表現してあるだけです。嘘が全く入っていないのです。だから極限まで淋しく寒々しいのに惹かれ、吸い込まれるのです。嘘が入っていない、多分それが本物である為の一番基礎的な条件なのでしょう。

6258

何処(どこ)かで見た風景、日常の通勤路で、或いは家のベランダから外を眺めた光景、甚だしきは駅のプラットフォームで列車を待つ間に何を見てそう思ったのかも判らないで感じる既視感。私はそういうものが好きです。それは何かの用事で頭がいっぱいの私をいきなり別の次元に連れて行きます。自分が生活している次元と明白に違う、昔の、もっと根源的でもっと基礎的で非常に懐かしい、そして天に近い次元に。
自分という人間が別に居るのです。明らかに、現在、その瞬間に自分が生きている場所とは違う所に、斯(こ)うして生きて呼吸をしている自分とは異なるもう一人の、本当の自分が居るのです。私の場合この本当の自分という観念に、故郷の父母というものが密接に甚だしく強く結び付いている、否、それが直ちに即ち本当の自分であると謂う事が出来る程に一致しているのです。
私は私の存在の必須の条件を頑(かたく)なに守ります。それは私が幼い日に私に伝えられ、与えられたものです。それが私の根本を成しています。私の一生とは、様々に経験し様々に怯え様々に苦悩しますが結局その根本の私を汚さない事なのです。私は既に与えられているのですから。私は自分を成長させ拡大し展開して行かなければならないのではありません。内に在る大切なのものを汚さない事が全てなのです。

6257

働いても貯えという程のものが得られない、その日その月を過ごすだけで終わって仕舞う。これは慥(たし)かにつらいのはつらいです。誰だってなにがしかの貯えをもち、少しでも安心したいものですから。それに『安心』の為とばかりも言えませんからね。昔と違って多くの人が年金を受け取る事が出来ない今の世の中ですし。
でも、それは本当にその通りなのですが、生きるという事の本義に立ち返ってみる事は出来ませんか。明日を生きる保証が無い、況(ま)してや十年後などとんと想像も出来ない、今日一日を自分に恥じる事無く生きる、生きて行けなくなったら覚悟を決めて辞世を詠んでこの世を去る、そういう生き方を目指す事は出来ませんか。変な例えかも知れませんが、貯金など御当人が医療費のかかる病気に罹(かか)れば、或いは通貨暴落があれば、無いも同然なのです。そんなものは何(ど)の道動かざる確固とした支えたりません。何か一つの不慮の事態が横から一突きすれば吹っ飛んで仕舞うものなのです。それより人として恥ずかしくない様に毎日生き、そしてやって来る運命を静かに待つ、そういう基礎を心に敷く事は出来ないでしょうか。
私は思うのですが、斯かる覚悟は貯えを作る人であろうがそうでない人であろうが、世に生きる者等しく抱かねばならないものではないでしょうか。自分が何をする為に生まれ、生きて来たのか、難しいですがそれを把握する様に尽力して下さい。私はそれを勧めます。

6256

雑用であっても片付けているならば、何か仕事をしたかの様に『感じる』。けれどもそれで自分の人生が一歩でも先に進んでいる訳ではない。先を歩く時に携えて行く道具の手入れの為にその場に立ち止まっている様なものだ。
自分の人生の本義を尽くし、進捗させるべきだ。これだけが直接の成果なのであって、他のものはただ感覚的な達成を匂わせるだけで実体が無い。時間を惜しんで為(な)すべき事は、いつも自己終局の目標に直接に資する事だけではないか。

6255

「夜、布団の中で寝落ちする事だけが一日の楽しみという、どうしようもない生活」
ネットのニュース記事でそんな意味の言葉を読みました。早速言いたい事があります。これはそんなに悪い話ではありません。少なくとも私には、それは『どうしようもない生活』に思えません。私だって毎晩寝落ちするのが楽しみです。今まで遂に訪う事叶わざりし土地を夢路に辿るのです。尤もとんでもなく非道い夢を見る事も多いのですが。
生活の中に目標はありませんか。何も立派な土地付き一戸建ての家屋を獲得するとか、海外漫遊の一年間とか、途轍も無い程の金額の支出を伴う、それこそ生きている限り賭けても可(い)い程実現しない様なそんな目標ではなく。今日もあの人に喜んでもらおうとか、今まで自分は本気で何にも打ち込んで来なかったからこれだけはちゃんと首を突っ込んでみたいとか、親に何の恩返しも出来ていないから今日から家事をするだけではなく肩を叩いてあげようとか、そんな目標です。或いはもっと『方針』らしいもので、今日も自分らしく生きよう、とかの。
楽しみは自分で創る事が出来ます。他人が評するとささやかだと言うけれど、本当はささやかどころか仰(あお)ぎ見上げる程に立派で崇高な楽しみを。自分らしく生きるなどというのは正にそうではありませんか。そういった目標をもって、その上で存分に『布団の中で寝落ちする事が一日の楽しみ』という生活を送って下さい。『惨め』どころではありません。寧ろ模範です。