雅峰生の手紙

私が妻や友人に宛てて書いた郵便から

手紙の過去分は順次当サイトから削除して『断章』としてまとめ、
『小説家になろう』に掲載後、 Kindle で電子書籍化しています

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家に小さな子供が居ると、私が自分一人で何処(どこ)かに行きたいという気持ちがあまり湧いてきませんね。それよりも子供と一緒に過ごしたいという気持ちの方が強い様に思います。何処かに出掛けるのなら、奥さん、子供も一緒に。そう感じるのです。
若い頃からずっと独り行動してきた私です。父母の待つ帰る家さえあれば、いつも独りが良かった私です。しかし今、それが確実に変わってきています。家族というものの力は凄いですね。私はいつも仕事や家事に追われながら、実は心でそんな事を想っているのです。幸いです。

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私は若い人になら兎も角、一般に他人に『生きる事』を勧めません。何が何でも生きろと、私は到底他人に言えません。その言葉の違和感は、この私に理由も無く百万円くれと言っているのと同じ程度のものかと感じます。私なら、生きる事ではなく、自分のしたい事を果たして下さい、その為に自分の生活に於いて努力して下さいと言います。これなら私は心から他人に対して勧める事が出来ます。
あても無く生きる事はただの苦痛であり、物質生活が成り立ったとしてもそれはただの倦怠であり、私はその意義を全く見出す事が出来ません。生きるのは旅する事です。遠い遠い、自分の決めた目当てに向かっての。

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五歳四ヵ月の息子が水性ボールペンで広告の裏に初めての手紙を書いてくれました。文章を私が指示したりお手本を書いた訳ではありません。何でも可(い)いから書いてみなさいと言うと、息子はたどたどしい文字で斯(こ)んな文章を書きました。
『お父ちゃん いつもかわいがってくれて ありがとう』
到底捨てられません。私は隅っこに年月を小さく書き、そして、
「これはお父ちゃんが貰っておくね」
と言って、クリアファイルに入れて自分の書類置き場に置きました。
言葉に出来ません。また、言葉にする必要も無いでしょう。私の地上での使命はまだ続くのです。それがはっきりとこの手紙には浮かび現れています。

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茶店であっても、あんまり何もせずただぼーっと一時間も座っていたら店員に気味悪がられます。無理も無い事かと思います。店員を責められません。河原が良いですよ。実にぼーっとしているのが似合います。誰の迷惑にもなりません。空も綺麗ですし。
 『何もしていない』のではありません。『想っている』のです。想う事は必要です。何も想わないと、人は人間でなくなるのですよ。

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自分がなるべく無傷で生き残る事が生涯最大の目的である人間の言葉を、どうしてこの私が、
「そうですね。全く仰る通りです」
などという顔をして、また実際その言葉を口にして、受け容れなければならないのですか。馬鹿にするにも程がある。人を何だと思っているのか。そんな事をしたら私はその瞬間に気が違って仕舞うでしょう。若しかしたら気が触れて何か手近な所に置いてあった鈍器か鋭利な金属棒を相手に投げ付けるかも知れません。思い切って馬鹿気た騒動がその場に持ち上がりそうです。またそんな時に限って、一発で相手の命を奪う事に成功するのではないでしょうか。正確に心臓や他の急所に命中したりして。だから心神耗弱を理由に私が裁判で減刑される可能性は低いと思います。プロの殺し屋でも一発で仕留めるのは難しいというのに、だからです。そうなのです。私はそんな時には、必ず私が言い逃れ出来ない様な結末に至るのです。不思議な程に。
私はそういう人間を人間として扱う事を全力で拒否します。そんなもの、人間が生きる姿ではありません。貧しくても可(い)い、私は人間らしく生きたいのです。そっちの方がずっとずっとマシです。

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『生きていても詰まらない』。観察ばっかりしているからです。世相を分析して評論家みたいなことばかり思っているからです。実践してみて下さい。立所(たちどころ)に世界はその様相を変えます。依然として汚く、残酷で、善くないものの巣窟の如き世界ではあるでしょう。しかし生きるに値しないものではなくなっている筈です。自分がするべき事が何も無い、そんな風には感じる事の出来ない空間にそれは成っていませんか。
自分の価値観の実践はこれを変えるのです。斯(こ)うやって変えるのです。何か一つの具体的行動を生活に組み入れて下さい。あなたの溢(こぼ)す不平不満が、尤もで意味の有る正当な不平不満に変りますよ。