雅峰生の手紙

私が妻や友人に宛てて書いた郵便から

手紙の過去分は順次当サイトから削除して『断章』としてまとめ、
『小説家になろう』に掲載後、 Kindle で電子書籍化しています

5850

貯えは、無いよりは有った方が勿論良いです。その緩衝材で食い止められる程度のものであれば、それは役に立つでしょう。自分自身だけに限らず、自分の家族をも守る事が出来ましょう。しかしやって来る衝撃がその程度のものであるとは、誰も保証してくれません。幾ら用意周到な備えであっても、正に『想定外』のものがやって来るかも知れないのです。そうしたら、貯えなど吹っ飛んで仕舞います。停止しているトラックをひっくり返し尚且つ道路上をごろんごろんと転がして行く程の突風に、普通の雨傘一つで対抗しようととするのにも似ています。役に立たないのです。詰まり、吹っ飛ばされるだけなのです。
動かぬものを、そう、動かすに動かせない目標を抱いて下さい。それを蔑(ないがし)ろにしては、自分の存在意義と真っ向から矛盾する、しかもそれが自明、眼前の人間の姿の如く明らかである、そういう目標を。それだけがトラックをごろんごろんと転がして行く嵐にも、一晩で物の値段が倍になる時代にも、有効なのです。何故といって、それを裏切る事など出来ないでしょう。それでこそ、生きて行けるではありませんか。

5849

離島の診療、僻(へき)地での教育、共にそれに志す人間の誠実さ、優しさ、そして真剣さが、この言葉を目にし或いは耳にするだけで伝わって来そうな気がします。其処(そこ)には、私が『世の中は汚い』と嘆じるのと正反対の尊いものが在ります。寺の鐘の、深く遠い響きにも似た尊いものが私の肌に届いて来ます。人間らしさ、それは斯かるところに十二分に現れます。
それを十分に知っていて――十分に、です――それでも猶(なお)この魂が感じる『世の中は汚い』でなければなりません。その尊いものと同時に汚いものも見えている、そうでなければ世の中の汚いものは本当に見えてはいないのです。
知らない人間で居てはなりません。全き自覚を抱いているつもりで居て実は全然知らない者で居てはなりません。汚いものも尊いものも、ちゃんとその本質が見える人間になりたいと、私はいつも願っています。それに渇しています。

5848

嘘ばっかり吐(つ)いていると他人が信用してくれなくなりますが、それよりもずっと怖いのは、自分で自分の事を信用出来なくなるのです。そっちの方が、圧倒的に怖いです。何も始められなくなるからです。
幾つになっても、何か新しく始めなければなりません。それをしないと自分の生きている世界がどんどん狭く小さくなり、息苦しくなって行くだけの話です。他人に誇れる様な事などしなくて可(い)いです。敢えて言いますが、その殆どのものは下らんのです。それよりも、自分で自分を信用出来なくなる様な真似をしないで下さい。其方(そちら)の方が遥かに重要な事です。

5847

今、如何(どう)なっているのでしょうか、あの、昔、私が少年だった頃に見た山陰本線の倉吉の駅は。蒸気機関車の煤煙の煤(すす)で、ホームも屋根も看板まで悉く皆真黒でした。空気もディーゼルの油煙臭かったです。今はもう、綺麗な現代風の駅になって仕舞っているのでしょうか。ゴミの一つも落ちておらず、駅ビルには商店が入りまくっていて、その代わりに誰も立ち止まって廊下で雑談なんかしていない様な、そんな味気無い、旅の実感も何もあったものではない場所になっているのでしょうか。
私はそんな風に思って、旅に出たくなる時がよくあるのです。私は昔の自分を訪ねたいのでしょうか。そんな気がします。しかし、だとしたら何故。どうして私はそんな真似をしたいと意欲するのでしょうか。此処(ここ)がまだ私には、私の眼と心には隠されています。私はそれを追いつつ、毎日を暮らしを堅実に過ごして行かなければなりません。そうしていなければ、その謎が解かれた時、その瞬間に、私は魂ごと吹き飛ばされて仕舞うからです。私はその時であっても、まだ私の父母の子です。私には屹度(きっと)、私が吹き飛ばされて仕舞っても構わない訳には行かない使命があるに違いありませんから。

5846

博打やそうではなくてもお金儲けの怖いところは、それに夢中になって仕舞う事でしょう。夢中になって、それでもっともっと大切な事を後回しにするか、忘れて仕舞うのです。そして愚かにも重要な機会を逃すのです。
自分を酔わせるものに警戒して下さい。それも自分の『安全の為』という理由を掲げるものを特に、です。自己の安全を全く顧みない事は善くありませんが、それでも自己の安全が一番になるよりはまだましだと思います。

5845

何も感じなくなる、多分それは、何も求めていないからでしょう。人は、真剣に求めるものが無くなると、自然に何も感じなくなるに違いありません。自分が馬鹿にされたとか、物質的な意味に於いて暮らしが行き詰まる、困る、そういう事だけを意識する様になり、喜びや願い、正に餓え渇き求めるものが無くなるのです。
それが具体的に何(ど)の様な言動、相貌となって現れて来るのか、説明する必要もありますまい。私にはそれが人間が普通に健康に生きている様子には絶対に見えません。人間が生きるというのは、断じてそんなものではないと強く感じるのです。あなたもそう感じるのであれば、自分の求めるものを犇(ひし)と掴んで放さないで下さい。そしてそれが本当に自分の打ち込むに値しないものである事が分かったのなら、次の、もっと本質的に尊いものを探しに出掛けて下さい。生きる目標、それを欠いていては、生きているとは謂えません。他人から指摘された時には反論したくなるでしょうが、自己省察としてこれを受け留めた時、反論は出来ないでしょう。

5844

五歳になったばかりの息子が、ゴダイゴの銀河鉄度999の歌が好きで、いつも聴きたいと言います。良い事です。あれは本当に良い歌ですから。良いものを、中身の在るものを、好きになって欲しいです。
それらの記憶が、息子の遠い未来に於いて一直線に繋がる時が来るでしょう。その時です。人が深くなる事が出来るのは。その時の為に、今、沢山の尊いものに触れて下さい。記憶を貯める、それは大切な事なのです。