雅峰生の手紙

私が妻や友人に宛てて書いた郵便から

手紙の過去分は順次当サイトから削除して『断章』としてまとめ、
『小説家になろう』に掲載後、 Kindle で電子書籍化しています

5541

大体が私は『懲りる』という事を軽蔑します。勿論失敗からは学ぶ事が必要なのですが、学んだ上で今度はしくじらないぞという再度の挑戦を尊敬するものです。人には羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くというところがどうしてもあるので、懲りる事の積極的意味を思うよりも、先(ま)ず尻尾を丸めて逃げる事の方が頭に上り、それを良くないと思うからです。
基本的に、いや多分悉(ことごと)く、人生に於いて自分の道を拓く事は挑戦に拠るものです。偶然の幸運というのは、在ったとしても既に為(な)した挑戦の上に働く筈です。雨みたいに一方的に天から降って来るものではありません。それでは道を拓いた事になりませんから。

5540

文学作品を様々読んでいると、左程ではなかったり、或いは結構心動かされるものであったり、実に様々です。作者の言いたい事がすんなり理解出来るものもあれば、一体これは何が言いたいのだと首を傾(かし)げるものも多いです。後者の類(るい)の作者とは、屹度(きっと)私と違う世界に生きているのでしょう。しかし今から思えば、何も知らずに手当たり次第に著名な文学作品を読んだ事が良かったのだと思います。私はそれで私と少しでも通じ合う作家が誰なのか、それを多く識(し)る事が出来ましたから。
いきなり一生の座右の書に出逢える訳がありません。仮に出逢えたとしても、寧ろそれは良くありません。遍歴が必要なのです。道に迷う体験が後になって欠く事の出来ない重要な要素になって来るのです。これは友人、親友を作るのと全く同じ事ではないでしょうか。様々、当たって下さい。それはそのまま間違い無く、あなたの懸命さ、真剣さの現れです。

5539

私には童話は書けません。詩と同じで、何か、書くと直ちに嘘になって仕舞う様な気がするのです。最初からもう無理だという気がするのです。
一切嘘が入っていない、そうでなければ童話も詩も偽物だと思います。不思議と小説にはその感じが無いのです。だから書けるのかも知れませんね。尤も、小説で嘘を書いている事など全くありませんが。要するに、私が童話や詩を全く『知らない』という事なのだと思います。

5538

『よく知らない』。結局人生の最後迄行っても、これは免れないものなのでしょう。自分ではよく知っているつもりで居ても。
しかし自分の願いに就いてはそうは行きません。世の成り立ち、秩序、そして辿って行く先に就いては結局知らぬで結構でしょう。でも自分が何を願っているのかは知らないで居て可(い)いものではありません。何故といってそれを知らなければ、最後迄自分が何者なのかが解らないままになるからです。誰がこの世を生きたのですか。生きて来た人は誰ですか。あなたでしょう。そのあなたが如何なる人間なのか、何(ど)んな人なのか、自分でもまるで解らない。それはあなたという人間の意義が全く無いと宣言しているのに等しいのです。そんな事、他人から言われたら、あなた怒るでしょう?だからです。そんな事はあなたが納得しないからです。

5537

『遊びたい』というのは、多分自由になりたいという意味なのでしょう。でも自由を与えられても、結局それを持て余し、終(つい)にはその自由が苦痛に変じて仕舞う実例を私は知っています。
自分の勝手にしていて、それが本当に充実に結び付いている。実はそれさえも自分が抱いている人生の目標の故なのではありませんか。

5536

時が早く過ぎる事を願わないで下さい。時は、『勝手に早く過ぎ去る』べきものです。早く過ぎ去っていたと、後で感じるべきものです。
自分の人生の残時間が確実に減っているのです。それを喜んで可(い)い唯一の根拠は、この世を去った自分の大切な人達と再び会える、その時が近付いているという期待だけです。しかしその大切な人達に再び相見(まみ)える為には、自分がこの世の役目をしっかりと果たさなければなりません。だから結局現在を大切にしなければならない訳であり、時間が早く過ぎ去る事を願うのは善くないのです。
時が早く過ぎる事を願いたくなる程に嫌な時間もあるでしょう。勿論私にもありました。けれどもそれを願うと、本当に時は早く過ぎ去って仕舞うのですよ。嘘みたいですが。だから今日の務めをちゃんと果たして下さい。

5535

昔の小さな私鉄は、本当に凄まじいものでした。車輛など一輌一輌形が違うのです。長さも幅も、更には色まで違います。そんな正真正銘寄せ集めの雑多な車輛を、一層変な形態の動力車が牽いて行くのです。おまけに信じられない事に、予算が無いので直線用の短尺レールを曲線部分に使用していたなどというお話まであります。だから夏の暑い日など日光でレールが膨張し、その部分を走行するとジョイント部分を渡る時大きな振動というか衝撃があったとか、本当に脱線して仕舞ったとか、逸話に事欠きません。まだ殆どの家で自家用車などというものをもつ事が出来なかった時代、そんな設備装備で小さな鉄道は走っていたのです。少ないお客と荷物、貨物を。
愛すべきではありませんか。それは交通機関です。会社です。勿論利益を得んとて走っていたのです。でも私にはまるで一人の人間の様に思えてなりません。それは愛おしむべき、慈しむべき、そして真面目な人間にしばしば見られる様に聊(いささ)か滑稽で、けれど何処(どこ)迄も生真面目な一人の人間ではありませんか。私が小さな鉄道を愛する気持ちをもっている、その事の根拠として、これは間違い無くあると思います。私はそんなところにも『人間性』を見出さずにはおかないのです。そんな私ですから、一切の事を冷静に見る事は出来ません。しかし冷静に見る事がしっかり出来る代わりに結局真実を見落としている、否、抑々(そもそも)見ようともしていない人間に倣う事は今後も無いでしょう。