雅峰生の手紙

私が妻や友人に宛てて書いた郵便から

手紙の過去分は順次当サイトから削除して『断章』としてまとめ、
『小説家になろう』に掲載後、 Kindle で電子書籍化しています

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クリスマスに山下達郎の『クリスマスイブ』を聴きました。動画だったので映像もありましたが。綺麗な旋律と切なく美しい歌詞。矢張この歌は良いですね。でも聴いていて或る事を思いました。それを率直に言いますね。
映像は、好きな男性との待ち合わせに急ぐ女の子を追ったものでした。向こうからやって来たその男性を見付けて女の子は心の底から嬉しそうな表情をします。その映像が何が言いたいのかは直ぐに分かります。それは本当に来てくれるのかという不安と、来て欲しいという切ない願いと、来てくれた時の自分の未来が展開して行く瞬間を眼前に見る興奮と喜びを間違え様も無く伝えてきます。ところが私がこの歌を良いと思ったのは、この映像と歌を『そのまま』に良いと感じたのではなく、歌をその映像から切り離し別の映像を心に思い浮かべていて、その、そちらの方のセットを良いと感じたのです。私の感覚ではこの歌に対して私が動画で見た映像では『不足』でした。自分の愛情が失われず相手によって確かに受け留められ成就するのは良い事です。『幸運な事』です。しかしそこには幸運の眩(まばゆ)さ、恵まれた幸いはありますが、生きて行く事の厳しさつらさ、それを思い知らされてそれでも自分の命を全(まっと)うするという根源的に強い意志、そういうものが無いのです。この映像は徹頭徹尾報われた喜びをしか表現していません。覚悟して先に進む強靭が見えないのです。従って『荘厳』ではありません。私はこの『クリスマスイブ』の曲の背後にはその『荘厳』こそ相応しいと感じられるのです。
冷めた物言いに聞こえるでしょうが、恋愛は重要なものではありますが人がその一生を生きる間の一つの要素に過ぎません。それは如何に真剣で真面目なものであっても人間が生きる普遍性には絶対に直参出来ないものです。私ならその場所に男性を見付ける事の出来た女の子の幸福を共に喜ぶ事よりも、何をしても生きる喜びを感じる事の出来なかった人間が誰か助けを求める弱い者に手を差し伸べる事に拠って自分の生き甲斐を見出す事の方に祝福を送るでしょう。そこに命を存分に発揮する『場所』を見出して喜ぶ覚醒をこそ、諸手をあげて喜ぶでしょう。それはその人が生きる限り、そして自らもう要らないとて投げ捨てる事をしない限り、壊れる事も失われる事も無い喜びだからです。
私の欲しい、そして失いたくない、ずっと両腕に抱いていたい『荘厳』は『幸運』ではありません。報われたその嬉しさではありません。徹底的に自分の側の『姿勢』なのです。その『姿勢』が人間の普遍的な願いに直接に接続する可能性を見せた時、私は感動して泣き出して仕舞うのです。それが人間が生み出す事の出来る最も尊いものであり、唯一永続するものだと私は信じているからです。