雅峰生の手紙

私が妻や友人に宛てて書いた郵便から

手紙の過去分は順次当サイトから削除して『断章』としてまとめ、
『小説家になろう』に掲載後、 Kindle で電子書籍化しています

5760

何気無い一瞬に、非常に魅力的なシーンがあります。如何なる要素が加わっているならばその魅力が具わるのかは説明出来ません。しかし其処(そこ)にその魅力が在る、厳然と在る事だけは、疑い様がありません。感じる、と謂うよりも、判然(はっきり)と見えているからです。見えているのに、それが何なのか判らない。

これが、心の働きです。これが情感というものが達成する何ものかです。私はそれに、非常に高い価値を認めます。如何なる理知的な整合性も、これには及びません。これは人に、まだ先を生きて行こうと感じさせる、その意欲を呼び起こすからです。そんな事が理知に可能でしょうか。出来ません。私は自分の感覚、心の働きに恃(たの)み、この後も生きて行きます。屹度(きっと)、それは虚しからざるものを私に伝えてくれるでしょう。

5746-備後落合

山の中の淋しい駅だ。昔この駅には、毎日毎時間、汽車が到着してはまた発車していった。駅員もお客さんも沢山居た。駅前には二つの旅館があった。人の流れがあったのだ。しかし今は必要とされなくなって、日に十本かそこらの普通列車がやって来るだけになってしまった。最早誰も居ない。風が山の間を渡る音と、小さな川の流れる音、そして思い出した様に啼く鳥の声だけが、この駅に響く音だ。

20220430備後落合3

息子よ。御前にはまだ判らないだろう。それで可(い)い。御前はまだ小さいからな。けれども御前が大きくなったら、人に見捨てられた斯(こ)ういう場所をこそ訪ねるのだぞ。斯(こ)ういう所にこそやって来るが良い。そしてもう人が誰も居なくなった場所に立ち、遠い昔、その場所で営まれた人間の活動とその想いに心寄せるが良い。何故といって、そういう時にこそ、人には他人の心の声が聞こえるからだ。そういう時に、人の心は深くなるからだ。御前が深い人生を歩く事が出来る様に、お父ちゃんは祈っている。

5740-備後落合

前夜、よく眠った筈なのに、昼間の行程が眠い。矢張旅先だからか。特に長く歩いている訳ではない。しかし矢張心が緊張し、昂(たかぶ)っているからか。列車に乗ると、復路必ず眠ってしまう。クロスシートだと嬉しいのだが、ロングシートなので眠りにくい。それに一日に三本しか発着しない上に列車は一輌だけの単行運転で、車内に客は結構多い。立ち客あり。
この感じ、久し振りです。列車の中でも旅館でも、休み切れないのです。完全な休息に手が届かず、後に疲れを残すのです。でも心は旅を喜んでいる。目当てにやっと会えたという気持ちの方が強い。ですが、私は予期しませんでした。斯かる旅の途上、私の横にずっと私の小さな息子が居るとは。幸いです。感謝です。

20220430新見

5738-備後落合

収支が悪い鉄道の線区が発表になり、廃止前にと、遂に家族で一泊旅行に出掛けました。奥さん子供を連れて、一日中列車に揺られる旅です。新幹線と特急列車には別段何かの面白味があった訳ではありませんが、その先の支線がもう言語に絶する魅力でした。現役の路線だというのに、線路の間が雑草でいっぱいです。枕木が見えない場所が多かったです。おまけにカーブ区間も短いレールなので、恐らく線路が自らの慣性で直線化し、ジョイント部分でかくかくと角度を変えているのが見えました。線路の継ぎ目の度に左右方向に激しくぐんと揺れます。速度が二十五粁(キロメートル)程度であってもです。そして目的地である山間の中継駅、備後落合駅に着くと、雰囲気が満点でした。往時の、夜中でも人の動きと汽笛が響いていたこの駅は、今眠る様にしてその場に在りました。

20220430備後落合1

此処(ここ)を舞台に、以前小説を書いたのです。私がこの場所にやって来た理由は、その舞台の『確認』に来る意味もありました。廃止されてしまってからではこの『確認』はまず無理ですから。そして私のこの作業は無事に終わりました。そして言葉に出来ない『予感』を、また新たに与えられて、私はこの駅を後にしました。『真夜中の汽車』。時は昭和三十二年、この備後落合駅で深夜の二時代に上下が交換したC五十六牽引三輌編成の快速夜行ちどり、それとその汽車に乗る客がよく利用した駅から一番近い、勿論今はやめてしまって建物だけが残っている大原旅館を描いたお話です。その場所を実際に確認出来て良かった。奥さんと息子には、本当に御苦労様、有難うの気持ちでいっぱいです。

20220430備後落合2

ずっと昔、私が子供の頃に鉄道雑誌で見たこの駅の写真と、その写真から私が四十年以上あたため膨らませた夢の供養は終わりました。ですからまた、次のお話を書かなければなりません。私が小説を書くのは、正に自分の夢を供養する心持ちなのです。その気持ちが私の書くお話には、一番相応しいと思っています。

 

5684-梅小路

御前は時々、話しながら自分で泣く様になったな。お父ちゃんもいずれは死ぬ、お空に帰るという事を知って、それで泣く様になったな。御前が生まれる前は御前は透明人間で存在していて、お父ちゃんの若い頃の事も見ていたと言うね。その、お父ちゃんがまだ若い時、お父ちゃんがお父ちゃんのお父ちゃんとどれだけ仲良しだったのかも知っているんだってね。御前は透明人間として、その様子を見ていたから。
命の光景というのがある。その一瞬の一コマで、その人の人生全部をもう完全に表して仕舞っている光景というのが。御前もそれを心にもちなさい。それを心にもって、そして生きて行くんだ。ずっと、愛している。

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20220402梅小路